ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユ

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ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユ
Tarf virl woltsaskaiju
ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユ
第4代就任に際して公表された肖像写真
(2020年撮影)
生年月日 1980年
出生地 デーノ共和国 ヒンゲンガード
出身校 ユエスレオネ中央大学
所属政党
称号
  • 博士(家庭学)(ルティーセ学院大学、????年)
  • 博士(法学)(ユエスレオネ中央大学、????年)
配偶者 アルフィア・ド・スキュリオーティエ・アリア(2038年から)
親族

内閣 ウォルツァスカイユ内閣
在任期間 2020年n月n日 - 2025年n月n日

ユエスレオネの国会議員
当選回数 2回
在任期間 2015年n月n日 - 2025年n月n日

ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユ(: tarf virl woltsaskaiju)は、ユエスレオネの社会哲学者、連邦社会党員、理論的指導家。ユエスレオネ連邦外務省大臣や第4代首相、南サニス王などを歴任した。ルティーセ学院大学准教授や南サニス王立アカデミーの教授も務めた経験を持つ。写真は女装しているもので、彼の生物学的性別は男性である。

家庭学博士号と法学博士号を保持。配偶者はアルフィア・ド・スキュリオーティエ・アリア。主な呼び名は「お菓子(lersene)」。

概説

phil.1980年にデーノ共和国のヒンゲンガードで生まれる。小さい頃から非常に優秀であり、ヴェフィス国立研究院大学の栄養家庭学科に15歳で飛び級で入学して2000年に修士課程を修了した。博士課程への進学も予定されていたが、折しも発生したエルフ熱の騒ぎで上空へ移住したことに伴って中止になる[1]

phil.2002年、親類のターフ・ヴィール・イェスカと縁があったことからユエスレオネ共産党に加わる。しかしユエスレオネという標高の高い地域に移住したことで虚弱体質が判明し車いす生活になったことでプロパガンダやイェスカ主義の紹介といった執筆活動を主とするようになる。内戦終結後は栄養学の博士課程に戻ろうとしたが、イェスカやユミリアの強い求めによりユエスレオネ中央大学の法学部へ入ることを余儀なくされた[2]

博士課程修了後は社会党に籍は残していたものの趣味の料理・製菓に没頭しており、ユエスレオネの家庭科教科書におけるお菓子のレシピは彼が監修している。

phil.2014年、ユミリア内閣で外務大臣として任命されたことで突如として政界に引き戻され、翌2015年に第三回連邦選挙に出馬し当選している。さらに、その次の年の2016年、タフター南サニス四年戦争の調停のためユエスレオネ全権大使として派遣され、そのまま大使兼国家顧問として数年間南サニスに在住することになる。

phil.2019年、社会党で権力を握ったアレス・デュイネル・エレンに反発してIDLTを結成、翌年の選挙で与党となる。初めは入閣する予定ではなかったが、第3代首相に就任したレシェール・アルヴェイユが頭痛で緊急入院したことに伴い南サニスから帰国、首相に就任し任期満了まで務めた初の首相となった。任期満了後は分断された社会党を統一するために「社会主義政党再統一の為の委員会」を結成、のちにユエスレオネ統一社会党としてまとめ上げることに成功する。

その後はルティーセ学院大学で栄養学の博士号を取り、そのまま数年間准教授として勤務してアルフィア・ド・スキュリオーティエ・アリアと出会う。2038年に結婚してヴェフィス大公の血筋スキュリオーティエ家の分家となり、南サニスで王となったあと王立アカデミーで教鞭をとることとなる。

お菓子作りが趣味であり、政治文書の他に多くの料理本を出版している。

経歴

青年期まで

デーノ共和国のヒンゲンガードにて、リパラオネ系の父とリナエスト系の母の子としてphil.1980年に生まれ、リナエスト語のウォルツァスカにちなんだ名を与えられる。当時はリパラオネ・ナショナリズムによるリパライン語化が吹き荒れる時期ではあったものの[3]、育った地域が多くの言語が入り乱れる土地であったこともあり彼自身はリパライン語を母語とし、他の言語もヴェフィス語リナエスト語をそれぞれ現世のCEFR(wikipedia)でいうところのC1とをB1のレベルで修得している。

その優秀さから飛び級を繰り返して15歳にヴェフィス国立研究院大学(VIKK)に入り、在学中はVIKKの教授であったターフ・ヴィール・イェスカの授業を聴くのが趣味であったという。同時に飛び級の弊害として友人を作ることが難しく、周囲で遊び相手になれる年の近い人間が従姉妹のリーニアのみであった。このことが彼にリーニアへの異常とまでも言える愛情と、彼女以外の親しくない人間への深刻な不信を抱かせることにつながり、これらは後述するさまざまなウォルツァスカイユの特徴や行動に影響を及ぼすこっとなる。

共産党が立ちあげられるとイェスカとの縁で入党することになるが、生活の場が突然高所になったことに適応できず車いす生活を送っていたため現場に出ることなどは出来ず、青年部でももっぱら後方で理論の組み立てやプロパガンダの文章書きを行っていた。『やさしい正しいイェスカ主義』や『高校生のためのイェスカ主義入門』といった初期著作はこの時期に書かれている[1]

内戦終結後

栄養学の博士課程に進もうとしていたが、ウォルツァスカイユの哲学思想への適性を高く見込んだイェスカとユミリアは彼に法学の博士号を取るようにしむけ、半ば強制的に法学部へ進むことになる[2][4]。この時、彼は勉学に加えて当時盛り上がっていた新イェスカ主義や学生運動の監視の役目も帯びており、このためにプルシア・ド・バローティエ(Poulisia de Bellautie)という偽名を名乗っていた[5]。これがバローティエ家の人間に見つかって正体がばれ、在学中は主従の関係だったという[6]。また、第三世代レヴェン学派の筆頭とも目されるスカースナ・イヴァネ・ルディエシャファと在学中に知り合い、彼女の下で博士論文を書き上げている[1]

政界への復帰

phil.2014年、突如としてウォルツァスカイユはターフ・ヴィール・ユミリア政権に外務省大臣として入閣し、これを機に政界に戻る気が起きた彼は翌2015年には軽いノリで第三回連邦選挙に出馬し当選する。2016年にはユエスレオネの全権大使としてファールリューディア講和会議を任せられ、タフター南サニス四年戦争の調停を行うこととなる[7]。これと同時に南サニスで暴政を行っていたターフ・ヴィール・タリェナフをファルトクノアへ追放し、その後は南サニスで国家顧問として財政が崩壊した南サニスを国家として立て直すことに尽力している[1]

phil.2018年、ユンカーの鐘によって実権を握ったアレス・デュイネル・エレンがウォルツァスカイユの従姉妹のリーニアにターフ・ヴィール・エレーナという偽名を名乗らせ傀儡として擁立、社会党の党首に据える。これは党内の穏健派のうち有力者であったウォルツァスカイユに対するエレンの懐柔策であったが、ウォルツァスカイユ自身はリーニアを守るために政治から遠ざけていたためこの行為に激怒し[8]、社会党を離脱して同じくらいの穏健派のレシェール・アルヴェイユらとともにユエスレオネ社会党ステデラフ・イェスカ派(IDLT)を設立し、翌年の第3回連邦選挙で社会党を与党の座から降ろすことに成功する。

首相就任

社会党が議席の過半数をとれなかったことに伴い、IDLTは右翼政党の国民党およびレヴェン主義政党のレヴェン統一党と連立政権を組んで内閣を作る。これによって第3代首相にはレアルが就任したが、持病の偏頭痛が悪化し、1か月で職を退いてしまう[9]。これによって政権内では首相職の押し付け合いが始まり、最終的にウォルツァスカイユが南サニスから呼び戻されて首相につけられることとなる。暗殺されたイェスカや失脚したユミリアの二の舞になることを極端に恐れていたが、しかし彼は任期満了まで務めた最初の首相となることとなった。

任期が終わった後は、分裂した社会党をもとに戻すため「社会主義政党再統一の為の委員会」を社会党のリーニアおよびデュイン官僚出身の政治家ウードヴャズネと結成し、のちに統一してユエスレオネ統一社会党を結成する。

アルフィアとの結婚

社会党の統一後はルティーセ学院大学で栄養学の博士号を取り、准教授として勤務する。phil.2030年には国家評議会体制に移行した南サニスの王として推戴されているが、南サニスにはウォルツァスカイユはおらず、それまで摂政評議会で議長を務めていたレヴェア・ラヴォラント・ミナミラハ・エスドヴァーダに国政を任せていた[10]。ルティーセで教鞭をとっている時期にヴェフィス大公のスキュリオーティエ家前当主であるアルフィア・ド・スキュリオーティエ・アリアに見初められ[1]、2038年に結婚して南サニスに定住しスキュリオーティエ家南沙系統を開く[10]

政策

連邦首相として

基本的には多言語文化の保全や教育の充実をはじめとする福祉を重視するユミリア政権の社会民主主義路線を引き継いではいるが大きな相違点として「大幅な軍縮」「介入を嫌う」の二点がある。軍縮については、連邦軍が革命期の武力革命的な思想が主流を占めていたことを嫌ってのことであり、同時に「軍の完全なる無党派化」が目指されている[11]。しかしこの時に職を失った兵士が、ウォルツァスカイユへの不満をあおるユミリアの呼びかけに答えてクーデターの戦力になってしまったという面があり、この強行的な軍縮には批判が後世なされている[要出典]。介入を嫌う点については本人が武力行使を嫌っていたという理由もあるが当時の政権は3政党による連立内閣であったことに起因する不安定を抱えていたためである[12]

南サニスの統治者として

タリェナフおよび教会の軍国主義的宗教王政のもとで財政破綻に陥っていた[脚注 1][13]南サニスを再建するため、ウォルツァスカイユは連邦の軍事力を背景にして中央集権化を強力に推し進め、非常に苛烈な統治をおこなった[10][14]

  1. 教会および貴族からの権力の取り上げ
  2. 神の代理人たる王による教会支配の宣言
  3. 軍の一元化
  4. 秘密警察の増量
  5. 信教の自由
  6. 教育の整備
  7. 経済の再建

を柱にして統治を進めたが、このうち信教の自由に関しては「どの方法で神を信じるかの自由」であり「神を信じない自由」はないとされた[15]

思想

イェスカ哲学から説得主義を受け継いで発展させ、民主イェスカ主義を創始している。また、イェスカ哲学の根幹にあるのは「愛」であり、その愛に従属することで人間は真の自由を得られるというイェスカ倫理学も唱え、ユミーア・ファナーン・テラティェレフが後継者として引き継いでいる[16]。他にも、タリェナフの闘争的イェスカ主義やアイン思想をはじめとする新イェスカ主義などに対しては著書の中で厳しい批判を向けている[17]

彼の政治観は民主主義的政体ではなく「よき導き手」による哲人政治を志向したものであり、この考え方は南サニスの中央集権的な絶対王政において顕著に表れている[10]。また、非常に受動的な革命観をもっており、武力革命を「反革命どころか革命を遠ざける害悪」と位置付けている[12]

人物・逸話

  • 従姉妹のリーニアへ尋常でない愛を注いでいたことで知られる。彼の行動規範は常に「リーニア第一」であるとされ、リーニアもまたウォルツァスカイユのことを深く愛していた。
  • 人間を信用していなかったため民意に迎合するのを非常に嫌っており、彼の思想は非常に哲人政治的であった(イェスカ哲学については「忠実に実装すると哲人政治になる」という研究成果が存在する)。
  • ネートニアーではあるがほぼ常時可能剤を服用しており、phil.2005年以降は少なくとも表面上はほぼケートニアーであった。
  • レアルと同タイミングで安全ピンを貰っているが彼はちゃんと使っている。
  • 私情で政治を動かしがちという意見が見られるが、これに関しては複数の立場が存在する。

[18]

著作リスト

  • 『やさしい正しいイェスカ主義』
  • 『高校生のためのイェスカ主義入門』
  • 『闘争的イェスカ主義への誤謬表』
  • 『新イェスカ学派への警告』

外部リンク

脚注

  1. 四年戦争を計画した時点で既に財政は危機的状況にあり、タフターの銀山をとることで国庫に補填しようとしていたとされる

出典