ユエスレオネ
ユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦(理: Yuesdera'd Fantasa'd Iuesleone) 通称ユエスレオネ連邦とは、ファイクレオネの空中要塞ユエスレオネ、アレークウィのデュイン総合府、大宇宙に存在する惑星スラーンのファルトクノア共和国からなる連邦国家。
または、空中要塞そのものを指してユエスレオネと呼ぶこともある。
目次
国名
yuesleoneの-leoneは、本来リパラオネ祖語の語根で「土地やその土地に結び付けられた文化風俗、慣習」を表していた[1][2]。
yuesの部分は恐らくyunaと同根であり、リパラオネ人のうちでユナ・リパライン語を話す人達を指す。本来ユエスレオネはリパラオネ連邦の開発したものであり、現地の地名に由来すると思われる。
革命後の正式国名はユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦(Yuesdera'd Fantasa'd Iuesleone'd lartassa'd xejuss)であったが、ピリフィアー歴2011年にファールリューディア自決権条約によるユエスレオネ連邦(Fankasa'd yuesleone fon farl'liurdi'a'd calsnajltunirfenen firche)に変更された。
歴史
ユエスレオネ成立前後の動き
地上を捨てた事をきっかけとして、多くの民族が入り混じる混乱の中で様々な思惑が交錯する動乱の時代だった。
共和制ユエスレオネ時代
Phil.2000年にリパラオネ連邦、レアディオ国、デーノ国、クワイエ国を始め大陸規模で大流行したエルフ出血熱によって世界の人口は大幅に減少した。これを食い止めるべくリパラオネ連邦ではワクチンの開発が急がれたが、動物実験によってモンスターが発生し、地上はモンスターに埋め尽くされていった。生き残った人々は、ついに地上で生きることを諦めて天空へと逃れた。
ユエスレオネは元々リパラオネ連邦の軍事要塞であったが、非常事態につき生き残った全ての人々を収容した。これを機に地上国家の政府は崩壊し、新たにラネーメ系のアル・シェユ、リパラオネ系のフェーユ・シェユ、デーノ系のクワク・シェユの三つのシェユと呼ばれる政治的単位を設け、それぞれのシェユが協力しあう超国家主義体制を敷くことで情勢の安定化を図った。
社会主義連邦の成立
ターフ・ヴィール・イェスカが設立したユエスレオネ人民解放戦線は予てより説得による無血革命を掲げて活動していたが、FQXEがきっかけで共産主義への規制が強まり、言論活動中の人民解放戦線メンバーが逮捕される事件が発生した。イェスカは残ったメンバーを集めてユエスレオネ共産党を設立した。同党は超国家主義を掲げていた各シェユを攻撃して各シェユ政府から非合法組織に定められたものの、同党宣伝局長アレス・デュイネル・エレンが「革命抗戦・愛国統一・階級解放」を唱え、武力革命を煽動した。これによって2002年5月12日にユエスレオネ内戦が勃発。5月18日、イェスカは警察署、役所、軍事施設、空港の破壊工作を秘密裏に教唆し、全国で合計130箇所以上の破壊に成功した[3]。しかし、フェーユで捕まった工作員によってイェスカの目的は露見する事態となり、これを受けてイェスカは「ユエスレオネ社会主義連邦暫定政府」をフェーユ西に建国宣言した。5月21日にはユエスレオネの統一と社会主義化を目的とした各シェユの軍の一部が反乱し、シェユとしての機能は麻痺状態となった。フェーユ政府は5月28日に降伏宣言したが、アル、クワク政府との戦闘は泥沼の長期戦となり、最終的には2003年12月8日にアル、クワク政府共に降伏を宣言した。2003年12月10日、首都をフェーユ北に配置し、シェユを連邦化した「ユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦」の建国が宣言され、革命が達成された。初代首相にはユエスレオネ共産党の党首であるターフ・ヴィール・イェスカ自らが就任した。
この革命からイェスカ首相暗殺までの期間は「第一次社会主義ユエスレオネ時代」と呼ばれ、それ以降の「第二次社会主義ユエスレオネ時代」とは区別される。第一次の特徴として共産党による事実上の独裁、資本の国有化と計画経済及び貿易規制や関税の強化、あらゆるものに対する検閲、徴兵令の強化などが挙げられる。
再革新
第一次社会主義ユエスレオネ時代の方針は革命直後こそ順調に見えたものの、想定外の新たな貿易相手であるハタ王国やPMCFとの貿易摩擦や検閲による経済への影響、矛盾した制度など、いくつもの問題が浮上し始めた。2004年3月、ユエスレオネ共産党はこれに対処すべく、ショレゼスコを実施[4]。検閲や計画経済を廃止して経済・貿易を自由化したり、共産党議会を廃止して選挙による間接民主制の連邦議会を設立するなど、大きく方向転換した。これに伴いユエスレオネ共産党は解散し、ユエスレオネ社会党として再構成された。
再起の一手として行われたショレゼスコであったが、短期間の急激な経済制度の変化による産業の疲弊や、貿易自由化と関税緩和の同時実施による安い外国商品の流入などによってユエスレオネ国内の産業は崩壊し、恐慌状態に陥った。この経済改革による大失敗は「ショレゼスコ危機」と呼ばれ、ターフ・ヴィール・イェスカ首相は支持率を大きく落とすことになった。2004年6月19日、革命の姉誕生パレードでイェスカ首相がxelken.valtoal構成員の青年にって銃撃され、殺害される事件が起こった[5]。イェスカ首相の死後、一部の支持者が報復と称してxelkenや対立する立場の人物を襲撃・殺害する事件などが多発した。社会党次代党首にはイェスカの実妹であるターフ・ヴィール・ユミリアが後任し、その手腕によって社会党の支持は回復した。2005年の連邦議会選挙においても社会党が過半数を上回る51.34%の票を獲得[6]し、ユミリアは第二代首相を務めることとなった。
xelken過激派との争い
古リパライン語の権威回復という名目で拉致や武力に訴えるxelken過激派との争いは、ユエスレオネの歴史において重要な意味を持つ。
デュイン戦争
ユエスレオネ内戦の只中である2002年11月、共産党率いる革命軍の諜報部がxelken.valtoalの情報を掴んだ。確認のため該当地域へ調査員を派遣したが帰還することはなく、消息は途絶えた。ユエスレオネ社会主義連邦暫定政府は調査員が殺害されたものと判断し、報復としてデュイン・シェルケン政権に対して宣戦布告、デュイン戦争が開戦された[7]。12月になるとアレークウィのxelken領地での戦争だけでなくユエスレオネ本土でのxelkenによるテロも過激化し、経済や安全保障にも著しい影響が出始めた。
2003年1月、ハタ王国から国王のカリアホ=スカルムレイが突如来訪し、当時暫定政府の外務大臣だったアレス・シュカジューと会談した。スカルムレイによって反ハタ王国の過激派武装組織ハフリスンターリブがxelkenと協力関係にあることが示唆され、サニス条約を締約すると共に共同戦線を張る方向で合意した。こうしてハタ王国と共に戦力を本格投入したことでxelkenは弱体化し、ハフリスンターリブなどの介入も押し切って、2月にはデュイン・シェルケン政権の打倒に成功し、ユエスレオネ連邦の新たな領土となった。その後、該当地域にデュイン総合府を設置し、八県二自治区の民族自治体制が確立された。
ユエスレオネはこの戦争で新たな国土デュインを獲得したのをきっかけに、人口密度問題を解決すべくデュインへの移住制度を開始した。また、それまでファイクレオネでは伝説のような存在であったハタ王国と正式に国交樹立することとなった。2006年1月20日にはサニス第二条約が締約された。
デュイン・アレス独立戦争
デュイン戦争の後、xelken原理主義者の中でも古理語の徹底的な普及を目指すvaltoal派の思想は現実的ではないとする派閥が分離し、2008年にはxelken.alesが成立した。ales派は古理語と新理語を再編したノヨ・リネパーイネを普及させ国際語とすることを目的とし、ユエスレオネ連邦の破壊と新国家シェルケン・オミョーンの興隆を目指した[8]。
2010年1月1日、xelken.alesとデュイン総合府側の一部の独立派勢力によってクランタル区庁が占領される事件があった。これを皮切りに、デュイン島嶼部での紛争に留まらず、デュイン全土、ユエスレオネ本土、そしてサニス第二条約を理由に参戦したハタ王国内にまでも戦火が広がるデュイン・アレス独立戦争へと発展した[9]。
当初ユエスレオネ側は区庁の占領をあまり重く受け止めてはおらず、デュイン総合府が寝返ったのは想定外だった。こうした初動の遅れもあり、クランタルとサラスはすぐに陥落、北デイシェス海海戦では連邦側艦隊は壊滅的被害を受けた。2月1日、続けて反連邦側はシェルタズャートゥンデ攻略のため空襲をしかけた。連邦はシェルタズャートゥンデ内陸にまで及んだ航空機を戦艦では対処できず、WPミサイルでこれを処理した。しかし、WPミサイルは敵航空機だけでなく島の住民をも巻き込み、多くの犠牲が出た。被害を受けたのは旧シェルケン政権時代に拉致されたユーゲ人系の住民だった事から、同じ民族であるハタ王国の人々はxelkenだけでなく連邦に対しても不信感を募らせていった。犠牲も虚しくxelken.alesの部隊はシェルタズャートゥンデへの上陸に成功し、デュインはクランタル、サラス、シェルタズャートゥンデを挟んで内陸部と遠島部で分断される形になった。反連邦側はこの戦中にアレス・ラネーメ・リパコールによって開発されたWP不能な空間を展開するイールドの新技術を不正に入手しており、遠島部への補給を断つ事を見越してのシェルタズャートゥンデ攻略であった。この戦略は反連邦側の思惑通りになり、イールドの新技術漏洩は戦況に多大な影響を及ぼした。この時点で連邦はサニス第二条約に則り協力を仰ぎ、ハタ王国も参戦することになった。
遠島部で孤立した連邦軍に対して反連邦側から投降勧告が送られ、連邦軍は選択を迫られることとなった。2月10日、リスターメの駆逐艦隊は軍規違反で決死の出撃を強行。反連邦側の巡洋艦体及び輸送規制艦隊主力を撃破、輸送経路の開放に成功した。その後シェルタズャートゥンデの連邦軍捕虜が全体で蜂起しシェルタズャーテゥンデを奪還したが、その間にパニャルが空爆を受け反連邦側に占領された。2月12日、次に反連邦側が狙ったのはWPミサイル兵器が大量に格納されていて発射設備のあるラファンカだった。連邦はすかさずこれに対応したが、既に戦力が削られて再編された連合艦隊では食い止めることができず、反連邦側のラファンカ制圧を許す結果となり、撤退を余儀なくされた。この後しばらくNZWPによる睨み合いが続き、戦闘も起こらなかった。4月1日、連邦はクランタルなどを含む一部領土を反連邦側に明け渡すとする停戦協定を持ち掛け、締結された。しかし当日午後10時頃、パニャルでの協定締結からデイシェスへ帰還中の首脳陣を乗せたフェリーを反連邦側の護衛艦と誤認して威嚇射撃した。威嚇射撃されたフェリーも反連邦側から攻撃を受けていると管制に誤報告し両政府は混乱。結局連邦側の勘違いによって停戦協定は破棄され、フェリーで立往生した首脳陣はパニャル側の国境付近に停泊して上陸したが反連邦側から銃撃を受け1人が死亡、3人が負傷する事態となった。
最終的には2011年3月3日に連邦側の勝利で終戦となった。今回の戦争を受けてサニス条約を更新し、3月から発効した[10]。
ファルトクノア共和国
Phil.2012年 ショアン戦争、ファルトクノア共和国がショアン王国から独立し、ユエスレオネ連邦に加盟
政治
政体
ショレゼスコ以降の国家体制は連邦議会行政執行部長(首相)を国家元首とする議院内閣制である。ショレゼスコ以前はユエスレオネ共産党党首に権力集中する一党独裁共和体制であった[11]。
立法
国家立法府たる連邦議会は一院制を採用しており、定員500人の国会(理:kali'a)が存在する。国会議員の任期は10年であり、10年ごとに全面改選される。国会議員はヘア=ニーマイヤー式単純比例代表制直接選挙によって選出される[12]。
2005年8月に総選挙が実施され、ユエスレオネ社会党251議席(51.34%)、人民会議党104議席(20.84%)、ラネーメ民族党62議席(12.42%)、ADLP共和党60議席(11.94%)、その他17議席(3.46%)。ユエスレオネ社会党が第1党になり、ユエスレオネ社会党単独政権が樹立した引用エラー: <ref>
タグに対応する </ref>
タグが不足しています。
軍事
地方行政区分
ユエスレオネ連邦は、空中要塞の本土にあるユエスレオネ国民共和国とデュイン総合府とファルトクノア共和国で構成される。
地理
国民
文化
交通
連邦国営鉄道がある[13]。シェユ間を超えて主要都市を繋ぐ長距離都市間鉄道「イェスカ」など。
経済
外交関係
この記事は書きかけです。
関連項目
外部リンク
- ユエスレオネ連邦 - 悠里総合サイト
- ユエスレオネ - リパライン倉庫
- ユエスレオネ主義 - リパライン倉庫
- 歴史年表 philerl - リパライン倉庫
- リパライン語と言語行政と文化 - 第五章 エフトーン時代の言語と文化
脚注
- ↑ Twitter - @sashimiwiki ユエスレオネのレオネはイタリア語でライオンめう?
- ↑ Diaxo gentuananerfej lipaっぽい単語から始まっている単語の問題
- ↑ ユエスレオネ社会党 - リパライン倉庫
- ↑ ショレゼスコ - リパライン倉庫
- ↑ Tarf virl jeska - 悠里総合サイト
- ↑ Phil.2005年ユエスレオネ連邦議会選挙 - リパライン倉庫
- ↑ デュイン・ポータル - xelken支配期
- ↑ xelken.ales - リパライン倉庫
- ↑ Dyin-ales poltdzarl elm - リパライン倉庫
- ↑ サニス第三条約 - リパライン倉庫
- ↑ finarph - リパライン倉庫
- ↑ finarph - リパライン倉庫
- ↑ NYACYの路線など - リパライン倉庫