四年戦争

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四年戦争とは、phil.2012年2月18日に南サニスタフターに侵攻して起こった戦争である。この戦争はphil.2016年3月2日にユエスレオネ連邦の調停でファールリューディア四年戦争講和条約が結ばれて終結した。

背景

南サニスでは、phil.2003年に王として即位したターフ・ヴィール・タリェナフが武力革命論の実現のため国を挙げてxelken過激派の追討を行っており、限界を無視した軍国化のせいで莫大な支出が生じphil.2011年には財政危機に陥っていた[1]。 この問題を解決すべくタリェナフが目を付けたのがタフターの豊富な鉱山資源であり、phil.2011年半ばから南サニスではこの資源による財政再建を目標としてタフターへの侵攻計画が立てられ始めた[要出典]

一方タフターでは、phil.2008年の「反対勢力」一斉処刑を初めとするタリェナフの暴政によって南サニスの財政が大きく悪化したことを受けて、自分たちが狙われるのを懸念した中央議会が国軍創設を可決していた[2]。 開戦当時のタフター軍は創設からわずか3年という寄せ集めの練度の低い武装集団に過ぎなかったが、南サニス軍もまた財政危機による待遇の悪化および派兵に次ぐ派兵で士気が非常に低くなっており、戦闘力に大きな差はなかったとされる[独自研究]

経過

開戦

タリェナフは形式的に宣戦布告を行ったが、それは侵攻の命令を下した後であり、WPで移動してきた使者が書簡を届けたのは侵攻が始まった後であった。 軍の練度の低さを理解していた中央議会は初めから軍を都に集結させていたため地方の村の防備はほぼ皆無であり、南サニス軍に一方的に蹂躙されるかたちとなった。開戦直後は南サニス軍の士気はまだ比較的高い状態で、後述する「イェスカか死か」が盛んにおこなわれていた[2]

なお、開戦直後からユエスレオネ連邦首相であるターフ・ヴィール・ユミリアILGAF同士の戦争に強い不快感[3]を抱いていたものの、デュイン・アレス独立戦争の直後で体制が不安定だったことや二年後(phil.2015年)の第二回ユエスレオネ連邦統一総選挙に向けて(特にデュインの)世論に配慮したため、当初は10月8日事件のような大っぴらな介入が出来なかった[4]

開戦時の状況

四年戦争は、タフターにとってはほとんど不意打ちに近い状況で始まった。まず南サニス軍の精鋭はxelken過激派を相手に抗争を繰り返してきた練度の高い集団であったが、タフターには国家としての交戦経験がなかったうえに装備も連邦やxelkenから細々と買い集めたものしかなく[注釈 1]、とても正面からぶつかって勝てるものではなかった。 しかし、タフターは十分な資金と備蓄の食糧を保有しており、開戦時から財政危機にあった南サニスとは対照的な持久力を持っていた[4]

攻都戦と膠着

開戦してわずか1ヵ月たらずでタフター西部の村はほとんど占領され、南サニス軍はタフターの都に達した。都は砂岩で作られた堅固な城壁に囲まれた都市であり、また開戦前に連邦から輸入していたイールドが散布されてWPによる移動を無効化していた。前身が行商隊の護衛であったため[5]、タフター軍は集団に対しての防衛に関する技術や能力が比較的豊富であった。城内へ誘いこんで分断して殲滅させたり、市内の路地や水道といった地の利を生かして奇襲をかけたりといった行動を繰り返し、攻城戦の経験の少ない南サニス軍は作戦を立て直す必要が生まれた。 しかしこうして作戦を立てている間に南サニスの財政や兵站はどんどん悪化していき、南サニス軍は決定打を欠くまま包囲を続けるだけとなって戦況は膠着した。

こうして、膠着状態になったことと「イェスカか死か」によって四年戦争はデュインへの難民が目立たない戦争になった。デュインは成立以後、連邦が介入した紛争の戦時難民がなだれ込むことで本国への批判が多かったが隣国同士の戦争で難民が少なかったという事実は国民に連邦が上手くやっているのだと誤認させ、デュインにおける本国とデュイン社会民主党の支持率を上昇させた。このことは連邦本国政府が調停時にやっと介入に踏み切った第三の理由にもなっている[要出典]

戦闘の終結

南サニスでは、戦況が膠着して半年ほどたった頃から鉱山資源を諦めて財政再建を助言する側近が現れ始めたが、タリェナフは耳を貸さず処刑を繰り返していた。そのため包囲を続ける南サニス軍も撤退することが出来なかった[要出典]

phil.2015年、統一選挙が社会党の大勝に終わり、それに加えて南サニスからタリェナフによる粛清を恐れてデュインに逃げ込む難民が目立つようになったこともあってユミリア政権は「19号作戦」を発動してタリェナフを追放した[6]。同時にターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユを全権大使として南サニスへと派遣しタリェナフの息子????を王位に就け、南サニス軍全部隊に引き上げを命じた。これとともにウォルツァスカイユはタフターと南サニスに連邦の仲介のもとでの停戦を提案、両国ともにこれを受け入れたことでファールリューディア講和会議が始まった[7]

講和会議

ファールリューディア講和会議はphil.2016年??月??日から開かれ、ユエスレオネ全権大使ウォルツァスカイユ、南サニス全権大使に????、タフター全権大使として????が参加した。この講和会議では勝敗を付けない形での条件になることが事前交渉の結果として初めから決まっていたが、南サニスの経済が完全に破綻しており賠償金がとれないことが明確であったため、条件をいかに決めるかというところで難航していた。

2週間ほどの会議を経て、内容はおおむね以下のように定まった[8]

  • 20年間の相互不可侵
  • 南サニス陸軍の15年間の軍備縮小
  • 南サニスの装備・兵器の一部のタフターへの移譲
  • 南サニスの炭鉱の25年間の租借
  • 南サニスとタフターの共同での二国間鉄道の敷設

????(タフター全権大使)は南サニスの工場の租借権の提供など更に厳しい条件を要求していたが、ウォルツァスカイユがすでに国内の戦争推進派の大粛清を行っていた[9]こともあり、連邦の説得に応じて調印した。

「イェスカか死か」

南サニス軍に占領された地域では「イェスカか死か」に代表されるイェスカ主義の強制が行われた。イェスカ主義を受容した村には部隊が駐留して南サニスの国民と同じ扱いを受け部隊に食糧を提供するだけで済んだが、歯向かった村は徹底的に破壊され村民は虐殺された。イェスカ主義の強制は、開戦からしばらくは活発に行われていたが、開戦から2年が経過したphil.2016年頃にはいよいよ南サニスの財政危機が深刻化し、本国からの補給がほぼ途絶えて駐留部隊は弾薬も糧食も受け取ることができなくなった。そのため村から徴発する食糧に頼らなければ生きていけない状況にあった駐留部隊と村との力関係は逆転し、イェスカ主義が名ばかりのものとなって村人たちは占領前とさほど変わらない暮らしを過ごせるようになった[2]。特に財政悪化後に占領部隊が派遣された村などでは村へ向かう途中で行き倒れている占領部隊を村人たちが助けるような光景が見られたという記録がされている[要出典]

影響

タリェナフが追放され(南サニスでは死亡扱い)、軍国主義が終了したことで南サニスは大きな変貌を遂げることになる。まず、ウォルツァスカイユの監督のもとで王政からレヴェア・ラヴォラント・ミナミラシャ・エスドヴァーダを議長とする摂政評議会体制に移行し、さらに講和条約により大幅な軍備制限がかかったことで軍全体の人数が減り、少数精鋭を旨とするようになった[1]。また平和な情勢下でファイクレオネの技術を取り入れることができるようになったことで、南サニスの海洋資源や豊富な土地などを生かしたセメント産業やガラス産業が発達するきっかけともなった。タリェナフの苛烈な徴兵により労働者人口が激減した南サニスでは農業や漁業のノウハウの多くが失われつつあったが、ウォルツァスカイユの監督によりなんとか持ちこたえた。

タフターでは、初の実戦を乗り切ったことで指揮命令系統やノウハウが蓄積され、南サニスから得た装備で軍備を充実させることができた。賠償金はえられなかったが、租借した炭鉱から得られる石炭がタフターに産業の発展をもたらし、支配を受け入れた村に対しては特に大規模な略奪も行われなかったため、南サニスに対するタフターの国民感情は著しくは低下しておらず、盛んに交流が行われている[2]

ユエスレオネ連邦では、2015年の選挙戦デュイン社会民主党が躍進したり、本国の社会党支持が保たれる奇妙な遠因となった。

呼称

この記事は書きかけです。

脚注

  1. xelkenから武器を入手していたのは主に連邦がやってくるphil.2003年以前のことで、それ以降はxelken(南サニスの穏健派を除く)との公式な取引は行われていない。

出典

外部リンク