リパラオネ教における偶像崇拝
リパラオネ教における偶像崇拝ではリパラオネ教での偶像崇拝の解釈や教義に関して解説する。
概要
偶像崇拝(tvasnko lilkladまたはtvasnko thefax)はリパラオネ教の中でも古代から議論されてきた。明確な教典における記述がないにもかかわらず長らく偶像崇拝は悪であるとされてきたことから、教派によって偶像崇拝に対する考え方はまちまちであった。
禁止の経緯
偶像崇拝が初めて禁止されたのはピリフィアー歴8世紀のことである。当時の教法学者フィシャ・ヴェラティヤ(fixa.velatija)は偶像の製作者やその家族、友人に変死が頻発していると突き止めたことに始まる。偶像を製作する行為自体が変死に関係しているとして、フィシャは教法学者と末端フィアンシャのシャーツニアーを結集させヴェラティヤ教法会議(velatija'd radierfen)を開催した。ヴェラティヤ教法会議は858年に最終的な原因解明として以下のような声明を発表した。
1. 頻発した変死は、偶像を製作または崇拝するものに頻発している。変死の原因は偶像の製作と崇拝であると断定できる。
2. 偶像崇拝の禁止は教典より教法的に導くことが可能であった。
2-1. フィアンシャン#4に基づき、偶像の製作者は偶像をアレフィスの実体であるとリパラオネ教徒を騙した。偶像がアレフィス実体でないことはアンポールネム#1.2に基づき、我々が暮らす世界にアレフィス実体が直接的に影響を及ぼせないことからして明確である。
2-2. 偶像の崇拝者は偶像をアレフィスの実体であるとして信仰した。このためにフィアンシャン#13またはアンポールネム レチⅡ-6-1に基づき、該当者はアレフィスとレチの契約から脱し、アレフィスの怒りによって死亡した。アレフィスが怒りによって人を殺した実例はskyl.1:19にあり、ファシャグノタールの[CO-TST1-2-2^5]以降にも書かれている。
3. 変死は教法を知らなければならない教会が信仰指導することで未然に防ぐ事ができた。変死発生地域管轄教会は「信仰深い者は必ず救われる。アレフィスの元では人間に上下は無い。間違えた導き手は裁かれるのだ。」(Skyli'orti'e1:10 5:1^3)に基づき、変死した者が属する家庭が生活困窮に至らないように補助しなければならない。
4. 補助命令に違反した変死発生地域管轄教会はフィシャ・フォン・フィアンシャの管轄から外れることを当地で公示する。
こうして、教法会議を経てリパラオネ教で「偶像崇拝の禁止規定」が教法学的に規定された。この教法会議の決定に基づき長年リパラオネ教会では偶像崇拝をリパラオネ教として行うことを異端(リパラオネ教の用語では「諸流派」)と見做してきた[1]。
偶像崇拝としてのアルコール利用
禁止以前
偶像崇拝が8世紀に禁止された一方で、アルコールの飲用外利用は認められていた。852年にはアルコール度数が高い水溶液を畑に撒くと植物が大きくダメージを受けて、すぐ枯れたためにこれが濃度の高いそのままの蒸留酒を撒くとそれを好むドルムが植物に憑いて枯らすと解釈した教法学者であるアルフィサザン・キェスネタフ(alficasan.kiesnetaf)によって雨が降る前に薄めた蒸留酒を撒くという対策が堂々と提唱されている[2]。ヴェラティヤ教法会議での「偶像崇拝」は人の手で作られた像を拝することを指していたということである。
9世紀中盤から10世紀初頭まで病虫害対策でアルコールを巻くことはリパラオネ圏で普遍的に行われてきた。また、中流以上の各家庭では水瓶に蒸留酒を貯めて置き、調理前につけることもあった[要出典]。
このような考え方が発展して13世紀になるとアルコールが「ドルムを操ることが出来る聖なる水である」と考えられるようになる。これによって何かを清めるために物にアルコールを掛ける灌奠(daliort)という慣習が定着した。本来、アンポールネムのフィアンシャンで飲酒は禁じられているものの、灌奠を体を清めることに援用して飲酒を認める諸教派も一部でてきた。これが後の飲酒を禁止しない諸教派(トユター派、フェイヤー派、復活派、スペウツニウ派、改革派の一部、デュイン・ヴェフィス・アイルにおける諸教派)の教義に繋がっている[3][4]。
ヴェラティヤ教法会議
1499年、教法学者であるターフ・ラーリヤによってアルコール利用は偶像崇拝であるとして禁止する宣言を出し、主流派のフィアンシャもそれに従ったことからアルコール利用は廃れていった。この結果、リパラオネ圏では間接的に寄生虫病や食中毒が激増した[2]。ここでターフが掲げた教法学的理論はヴェラティヤ教法会議における宣言をより抽象化した「物としての神への信仰は偽である」("mors cix tvasnko tonir es larj.")というものであった。ここから、フィシャ・フォン・フィアンシャが発した「偶像崇拝とは物としての信仰のことである」("tvasnko lilklad es mors cix tvasnko.")という追認によって、啓蒙と文明化の時代であった16世紀初頭においてリパラオネ教権威による反偶像崇拝の動きが厳しく高まっていった[要出典]。
同時に16世紀は農薬(dosnetta)の開発に向けた動きが始まった時代でもあった。このdosnettaの語源は「酒(dosnetost)の代用品」であり、教法会議でのアルコール禁止が影響していることがわかる[5]。
ターフ・ラーリヤはヴェラティヤ教法会議は「神を模したものの信仰は無効である」としてのに対して、「神の属性を持つ物すら我々の現世にはありえない」=「我々の世界、全てが神によるものであるので聖別は恣意的で意味をなさない」という教法学的理論を構築していったのであった[要出典]。
偶像崇拝禁止規定の揺らぎ
一方、考古学者エスポーノ・ドーハとその研究チームはデーノ・ラネーメ国境付近の遺跡の調査によって発掘した偶像に金アマルガム粒子の残留物があることを発見した。ドーハらは、この発見からこの時代から偶像に金アマルガム法による鍍金がなされたために偶像を作る聖職者や大工などに水銀中毒者が多発したのであろうとして1548年に著書『アマルガム鍍金説』を発表し[2]、偶像崇拝禁止規定は揺らぐこととなった[1]。
さらにphil.1549年、改革派リパラオネ教法学者であるスクーラヴェニヤ・ティイェティヤ(Skurlavenija.tijetija)は「神ではなく物理的に自らの過失によって自己を死に至らしめたという事実は、偶像の製作・崇拝とは関係ない。ヴェラティヤ教法会議の宣言は根拠がなく無効である」とした[2]。また、「偶像はその時代の文化・芸術的価値を残しており、研究的な価値があること」や、「偶像自体を信仰しているのか・偶像を通して神国のアレフィスへの想起を強めているのかは立証が難しい」と主張した。また、ティイェティヤはこれに加えて「アレフィス偶像や神族偶像の利用は神国への存在へと意識を強く向けるのに有用であり、生まれ育った世界を物差しとして計る我々がそれらを用いずにアレフィスについて祈ったり、想起したりしてもそれは自ずと偶像崇拝になるのであり、それは人類がリパラオネ教を信仰し始めてから長らく行われてきたことで、ヴェラティヤ教法会議に沿うとアレフィスに罰されるはずが、我々は罰されずに居るので教法学的犯罪とは成りえない。」と主張した。これらをまとめて、「ティイェティヤの神的想起記号説」(Tijetija'd tonirretisodrenejt ad akraptera)と呼ぶ[1]。