「レシェール・ヴェンタフ」の版間の差分

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2020年1月18日 (土) 17:27時点における版

レシェール・ヴェンタフ(理: lexerl.ventaf, 1839 - 1887)は19世紀の社会哲学者・法学者。ファイクレオネ近代法学三原則を提唱した近代法学の祖であり、後期からは法学基礎論から社会哲学に関する探求を続けた。省略名称であるレヴェン(理: leven)で呼ばれることが多く、彼の思想を受け継いだ者たちをレヴェン学派(理: Levenen terselyr)と呼ぶ。ラネーメ系リパラオネ人である。

概要

 レヴェン思想は前期と後期の2つ、1865年からのヴェフィス国立研究院大学での働きである前期レヴェンと政治活動によってヴェフィス国立研究院大学を追い出され天神大学で研究を続けた1878年からの後期レヴェンに分けられる。  前期のレヴェンは、ヴェフィス市民革命以降の思想における民主主義的法制を追求する方向性の研究を続けた。ファイクレオネ近代法学三原則である推定無罪原則、罪刑法定主義、事後法禁止を提唱し、これはその後の法学の大原則となった。  後期のレヴェンは、法の基礎づけに傾倒し、「教法学批判」「水器論批判」「心圧論批判」とそれぞれ称される論文・書籍群の中で伝統的な文書を批判した。その議論を通して人間の責任能力とその行為の可罰性などの概念や国家主義を批判することになる。


思想の変遷

前期レヴェン前夜

 民主主義的法制を追求する当時最先端の法学を学んだレヴェンは、レシュト紛争期などの近代の戦争期において、「緊急時局」の名の下に恣意的な法運用が成され、反逆勢力と目された人間が弾圧されたこと、そして一般民衆への圧迫も強まったことに注目し、恣意的な法運用を防ぐことが民主主義を体現した法制の必須条件であると見做すに至った。その根底に流れる公権力への不信は年を追うにつれ次第に表に現れることとなる。

前期レヴェン

 上記の内容を議論した学位論文『毒薬としての恣意性』が評価され、レヴェンは1865年にヴェフィス国立研究院大学に招待された。レヴィンは早速1866年に論文『法制からの恣意性の追放に向けた試論』を発表するものの、運用レベルの議論に終始しており有益でないと評価された。そこで翌67年に『不能性による法運用のための小論』において、「法の形態そのものに制限を加えることで恣意的な法運用を排除する」という議論を展開した。これは一定の評価を得たが、実際にどのような「不能性」を立法に課すべきかという課題を残す結果となった。  この問題は1869年の論文『予約の法学』によって部分的に解決した。そのなかでレヴェンは「罪を問うための権限は、立法によって予約しなければならない」「ここで述べる予約とは前もって定められた法典のことである」と罪刑法定主義と事後法禁止の原則(の一部)に言及している。そして1872年に『3つの不能性』において「罪に問われた者に成しうることも予約されてなければならない」「本来、人の罪を認定しそれに罰を課すことは、不断の疑いを乗り越えた先にようやっと可能な大事業である」と述べ、不能性理論(現代の用語でいうファイクレオネ近代法学三原則)を提唱した。  ちなみに、この刑罰が大事業であるという概念は『試論』において既に現れているが、『試論』においては運用によって大事業を正当に大事業と扱う立場をとっていたのに対し、『3つの不能性』では罰を大事業と見做さない法をそもそも禁じるという立場をとっている。この転換を本質的なものとして、1872年をもって推定無罪原則の確立と見做すのが法学史の一般的な立場である。

追放事件まで

 法学・法哲学においては『3つの不能性』は高い評価を得たが、伝統的教法学者にはリパラオネ教における罪の概念とその実社会への適用を害するものだとの批判を受けた。1876年、レヴェンは書籍『不能性理論の擁護』において、立法と法運用は人間が行うものであるという要請から、より安全・公平な法制を求めると自然と不能性を立法に課すことになると反論した。この議論は本質的には『3つの不能性』によるものと変わらないが、より詳細に、より厳密に、より歴史学的な実証主義に立って議論された。以降のレヴェンは、伝統的な勢力による反駁を嫌って明らかに過剰な理論武装を行うようになる。[1]  『擁護』の執筆と同時に、レヴェンは教法学を含めた伝統的な法の基礎づけが民主主義的な法制の発展を阻害してきたのではないかと考えるようになり、現行法の完全撤廃を目的とした政治活動を行うようになる。その結果として1878年にヴェフィス国立研究院大学を追われることとなる。その理由は「控えめに言って急進的、有り体に言って破壊的」なレヴェンの政治的立場が「ヴェフィスの繁栄の学問的な砦たる」ヴェフィス国立研究院大学に相応しくないからだという。[2]同年レヴェンは天神大学へ移り、伝統的な法の基礎づけについて不能性理論の立場から批判を展開していくこととなる。

後期レヴェン

 天神大学に移ったレヴェンは「教法学批判」の執筆に着手した。これは『擁護』とは異なり、リパラオネ教法学をリパラオネ教を不当に権力の安定に利用する試みとして積極的に批判するものであり、3つの論文と2巻の書籍よりなる。誤解されがちなことだが、レヴェンはリパラオネ教自体を批判したのでなく、リパラオネ教を不能性の要請なしに法制に適用し圧政機構として組み込んだことを批判したのである。現代でこそ急進派を中心によく用いられるこの「圧政機構」という語は、「教法学批判」を構成する論文の一つ『圧としての神』において登場したもので、同論文では「共同体一般の幸福の実現から離れ個々の人間を圧迫するようになった公権力に付随する機構一般であり、しばしば権力層の不当な優遇を含む」と説明されている。また1882年より「水器論批判」「心圧論批判」として知られる一連の論文・書籍を次々と発表した。こちらも同様に水器論や心圧論を水器論に影響された非常に緻密な議論によって「不穏な圧政機構の設計」と批判するものであり、民会による自治の支持と「責任」という概念を構成する原理の探求が特徴的である。  この着想を批判の文脈なしに基礎づけるため、彼は1886年に書籍『法の権威』を執筆、また「法制が前提してよい文化は強く制限される」という「普遍主義」を提唱し、その観点から宗教的な法の基礎づけを批判する論文『局所的基礎としての宗教』を発表した。1887年3月、彼は今までに法が満たすべきと提唱した要請を改めて基礎づける論文『安定した法の原理』を執筆中に死亡した。[3]享年47。死因は、自らの肉体の衰えを顧みない、あまりに旺盛な執筆活動による過労だという。


論文・書籍のリスト

  1. 『毒薬としての恣意性』(1864)
    レヴェンの学位論文。ヴェフィス国立研究院大学に招待されるきっかけとなった。
  2. 『法制からの恣意性の追放に向けた試論』(1866)
    ヴェフィス国立研究院大学での最初の論文。過去の事例を引き、恣意的な法運用を防ぐための意思決定機構などを議論したものであるが、現代のレヴェン研究ではほとんど顧みられない。
  3. 『不能性による法運用のための小論』(1867)
    不能性理論のさきがけとなる論文。『試論』での議論を一見合理的な機構の下で権力が腐敗した例を挙げるなどして再検討し、法制が成しえないことを設定しなければならないと結論づけるもの。
  4. 『不能性の実現について』(1867-8)
    法に不能性を課すための機構についての議論。現代ではさほど有効なものではないと評価されている。
  5. 『予約の法学』 (1869)
    罪刑法定主義の一部と事後法禁止の原則が提唱された論文。
  6. 『裁判の歴史』 (1870)
    過去の裁判の形態を一般向けに紹介した書籍。恣意的な犯罪認定に対する近代法学的な批判が特徴である。[4]
  7. 『3つの不能性』 (1872)
    罪刑法定主義と推定無罪の原則が確立された論文。これに対する教法学者の批判が後期レヴェンの諸活動のきっかけとなる。
  8. 『新時代の法制』 (1874)
    『3つの不能性』をもとに法学者以外に対し不能性理論に基づく法制の有益性を主張する書籍。
  9. 『不能性理論の擁護』 (1876)
    『3つの不能性』に対するリパラオネ教法学者の批判に対し、不能性の要請は「人間の法制において不可避的なもの」であると主張し、神学的基礎をもつ教法学と雖もその議論から離れることはないと主張した書籍。
  10. 「教法学批判」
    1. 『リパラオネ教法学の政治力学的研究』 (1878)
      天神大学での最初の論文。リパラオネ教法学の変遷を時の権力との関係によって分析したもので、分析に近代法学・法哲学の概念が積極的に用いられている点が特徴的である。
    2. 『ファイクレオネ法制の恣意性』 (1879-80)
      ファイクレオネ法制史において、恣意的な法運用の事例を取り上げ、それが可能であった理由を議論した論文。
    3. 『圧としての神』 (1880)
      上の2本の論文をもとに、リパラオネ教法が圧政機構として機能してきたと批判した論文。「圧政機構」という語が登場した初めての文献でもある。
    4. 『圧政機構としてのリパラオネ教法学とその法学的批判 上・下』 (1882)
      リパラオネ教法学がリパラオネ教法を圧政機構として安定させる試みであると論じ、不能性理論などの近代法学の観点による抜本的改革の必要性を主張した書籍。
  11. 「水器論批判」
    1. 『誰が容器を設計するのか?』 (1882)
      当時の水器論で一般的であった相互説(法は民衆同士の関係を円滑に進めるためのものであるという論)を念頭に置き、水器論から国家の立法権を結論する従来の議論には欺瞞があるとする論文。
    2. 『単なる幸福の棄却としての階級』 (1884)
      『設計』で相互説を念頭に議論を進めたことを正当化するため、上意説(法とは国家がその民を利用するためのものであるとする論)を中心に相互説以外の水器論を批判した論文。今までのレヴェンの論文・書籍で明文化されていなかった「民衆全体の幸福を実現するための舞台装置」として法を設定するという問題意識が明文化された論文としても知られる。
    3. 『不変性の要請』 (1885)
      『設計』『棄却』の議論を発展させて、法を民衆全体の幸福のための容器として基礎づけるならば、それを設計する主体は民会でなければならないとする書籍。水器論による国家の立法権の基礎づけを明確に否定した初めての近代法哲学書でもある。
    4. 『人間の羽毛的実存』 (1886)
      不能性理論も含め既存の法学が人間の責任能力を仮定しているとし、責任概念の基礎づけの必要性を主張した論文。多くの例が水器論から引かれていることや、「羽毛的」という表現が法によって必ずしも「疲れさせられない人間」の状態を比喩的に表していることから「水器論批判」の一つとして数えられているが、水器論のみの批判に止まるものではない。
  12. 「心圧論批判」
    1. 『心圧としての心圧論』 (1883)
      心圧の概念を社会一般の法制に適用することがかえって圧政機構の安定につながり、民衆の心圧を生むことになるとした論文。
    2. 『民会における心圧論』 (1885-6)
      『心圧』『要請』の議論を受け、心圧論を矛盾なく実現するには民会による法制が必要であると結論付けた論文。
  13. 『法の権威』 (1886)
    「水器論批判」「心圧論批判」で展開した民会の支持と責任概念の基礎付けを改めて整理した書籍。法の倫理的権威を基礎づけようという試みでもある。
  14. 『局所的基礎としての宗教』 (1886)
    普遍主義に基く宗教的法制の批判を展開した論文。「教法学批判」「水器論批判」「心圧論批判」の議論を統合しより一般的な議論を試みたものである。
  15. 『安定した法の原理』 (1887)
    レヴェンが提唱した法の要請を改めて基礎づける論文。彼はこれを執筆中に死亡した。


よく知られた文章

レヴェンの論文や書籍に由来する文章は、反体制派を中心に今でもよく引用される。以下ではそのような文章の中でも特に有名なものを紹介する。レヴェンの仕事(特に後期)は非常に長い理論武装を特徴とするため、よく知られる文章の多くは、章や節の冒頭で後の議論を予告するようなものである。

  1. 法を容器として見做す水器論に従えば、容器を使用できない者が登場するのを防ぐために法にはある種の不変性が要求される。しかし、一部の階級の者が法を運用する限りこの不変性は実現されない。このことは民会による法運用を支持し、逆に水器論による国家の法運用の独占の支配についての正当化を欺瞞として棄却する。
     『不変性の要請』の第8章「不変性の導出及び司法批判」の冒頭に由来する。
  2. "心圧"という概念はラネーメの法制に強い影響を与えてきた。しかしながら個人の信仰としては穏健とすら言いうる心圧の概念も、法制に適用されるとなれば不穏なものになりうるし、実際にそうであってきた。大まかにいえば、この概念は、(一般に変革が負担を強いるものであるというよく知られた性質のために)体制側の擁護者を自然と生産し続ける圧政機構的な概念として確立してしまったのである。より直接的にいえば、皮肉にも皇論は為政者によって民衆を抑圧するための圧政機構として機能してきたのである。
     『心圧としての心圧論』の冒頭に由来する。


逸話・人物

  • レヴェン本人はいたって敬虔に皇論を信仰していた。『心圧としての心圧論』の発表後にある人に「心圧の概念を批判してましたけど、あなたの思考って結構その概念によっていますよね?」と言われたときは「一ラネーメ人としての私は、一法哲学者としての私とは違って法制についていちいち気にしなくてもよいので」と答えたという。
  • 実はレヴェンは、学生時代には法学の道に進もうか歴史学の道に進もうか悩んでいたという。そのためどちらの道に進むとしても役に立つと考えて、教法学やラネーメ法制などの理論史に関する講義を多く履修していた。その時期にできた友人とは生涯を通してよく交流していた。その友人たちとの議論によって、レヴェンは伝統的法学に対する自身の批判を洗練させていったと言われている。
  • 『擁護』の段階でその過剰さは片鱗を見せている。実際その前半1/3は、近代法哲学の観点からの伝統的教法学の厳密な総括として不能性理論とは全く無関係に評価されている。しかしながらレヴェン曰く、それだけの大仕事も「教法学と不能性理論を対比的にとらえ、不能性理論の必然性を示すための最低限の準備」に過ぎないらしい。
  • 1878年末のヴェフィス国立研究院大学長による年間所感より引用。この年の大学長年間所感は一研究員(つまりレヴェン)の個人的活動に対する批判が全体の約半分を占めるという異例中の異例の事態となった。保守的な風土もあって彼の活動が非常に重く受けとめられていることがうかがえる。
  • 書きかけの状態の『原理』であるが、残された原稿だけでも法哲学の論文としては十分に議論されたと言ってよく、残されたのは例によって過剰な理論武装を施す作業だけであったので、そのまま正規の論文として発表された。
  • 近代的観点から過去の事例を批判することに対してこの時代は寛容であった。
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